《ちょっとエッセイ》金木犀は悪くない

そろそろ来るぞ。
私は口から大きく息を吸い、浅い呼吸に切り替えた。
なるべく鼻から息を吸い込まないように、口を最小限に開け
歩幅はいつもより半歩だけ大きくして、速度を上げる。
マスクをしているにもかかわらず、喉の奥にこれでもか、と、あの臭いが侵入してきた。
それは、金木犀。
秋になると、天気予報のコーナーでは金木犀の香りが話題になり、コスメ売り場には金木犀の香りのハンドクリームが並ぶ。
世の中では『金木犀=いい香り』として認知され、人々を癒やしているのだ。
この間は、金木犀のお茶まで見つけてしまい、ついに飲食界隈にまで来てしまったと
思わずため息をもらしてしまった。
世の中ではよい香りと認知されている金木犀だが、私にとっては香りではなく、臭い(におい)なのだ。
あのにおいを嗅いでしまうと、どうも胸のあたりがムカムカして
少々気持ちが悪くなってしまう。
訳は知っている、タクシーだ。
幼い頃に乗ったタクシー。
こもった空気の車内には、芳香剤の人工的で強く甘い香りに運転手の整髪料とたばこのにおい。
すぐに胸のあたりがぐるぐるしてきて、私はなんとか気をそらそうと窓の外を見ていた。
早く着いて!と願いながら、浅い呼吸を保ちつつ流れる街路樹を数えていた。
金木犀の香りはあの車内のにおいにそっくりなのだ。
鼻が感知した瞬間、幼い頃のタクシーの中へ引き戻される。
私にとって、金木犀は恐怖のトリガー。
私の精神衛生ブラックリスト入りメンバー。
だから絶対に、なんとしても鼻への侵入を阻止しなければならない。
それなのにマスクを貫通してくるほどの存在感。
私の頭の中で『もうええでしょう!』がこだまする。
怒りとも違う。うんざりとも少し違うこの感情。
とはいっても、金木犀に罪がないことはわかっている。
こちら側の一方的な事情で勝手に苦手になって避けているだけの話。
そう考えると、そこに存在してただ咲いているだけの金木犀には
少し申し訳ない気持ちになってしまう。
どちらかといえばこの感情をぶつける相手は芳香剤の開発者なのだろうか。
「もっとましな香りをつくってくれ!」と。
まあ、そんなことを言ったところで私の金木犀の香りに対する拒絶反応が変わることはない。
頭ではわかっていても、鼻が、脳がやめてくれと言うのだ。
世の中の「良いもの」が、誰かにとっては「恐怖のトリガー」になることもある。
街がオレンジ色に染まる季節、私はマスクの下で浅い呼吸を保ちながら
人知れずそんな多様性の戦いに挑んでいる。
今年も秋が来た。
金木犀には申し訳ないが、これからも浅い呼吸と早歩きで通過させてもらいます。
あとがき

金木犀の絵を描きながら、花はかわいらしいんだけどなぁ…と。
私は、たまたまいやな記憶と結びついていただけで、世の中の人はきっと良い記憶と結びついているから香りを楽しめるんだろうな。
私にとっての良い香りは何だろうとあれこれ考えていたら、お腹がすいてきました。













